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イギリスの抗議禁止文化

いま読んでいる本は「映画に学ぶスポーツ社会学」.
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これがなかなかにおもしろい.
映画とスポーツをテーマにしているのだが、実は社会学を説明するための素材に過ぎない.

実にうまく社会学、各国の文化比較も含めて展開されている.

スポーツについて私たちに衝撃的なメッセージを送ってくれる12本の映画を“案内人”として、現代社会においてあまりに自明となった「スポーツ」をあらためてとらえなおすと、どんな世界がみえるだろう。

アマチュアリズムの行方―「炎のランナー(Chariots of Fire)」
教育としてのスポーツ―「がんばれ!ベアーズ(The Bad News Bears)」
スポーツにみるジェンダー―「プリティ・リーグ(A League of Their Own)」
ファンがつくるスポーツ文化―「エディー 勝利の天使(Eddie)」
メディアによってつくられるスポーツ文化―「ヒーローインタビュー」
スポーツの近代化とつくられる伝統―「シコふんじゃった。」
なんのためのスポーツか―「Shall weダンス?」
スポーツの美学「勝利」と「挑戦」―「ティン・カップ(Tin Cup)」
障害者スポーツの悩み―「遥かなる甲子園」
グローバリゼーションとナショナリズム―「ミスター・ベースボール(Mr.Baseball)」
スポーツビジネスの台頭―「エニイ・ギブン・サンデー(Any Given Sunday)」
スポーツの大衆化と若者文化―「私をスキーに連れてって」

この中で、今日はアマチュアリズムについて.

オリンピックのアマチュアリズムについて語られている.
この中でイギリススポーツの抗議禁止という話が出てくる.

イギリスはそもそもスポーツのプレー中に一切の抗議が認められていないという.
こころ豊かなものとして審判の判定は絶対だというわけで、抗議するなどというのはイギリス流の考え方に反するのだ.

そもそもイギリス発祥のスポーツというのは審判が居ないか、居ても限りなく1人.
ゴルフ、競馬、クリケットなど貴族発祥で紳士たちが深めてきた.

そこにはすべては各人のフェアプレー精神にのっとり、審判の権威が保障されてきた.

ここで注意すべきは、判定の正確さというのとは別の観点だということだ.

本当に正確な判定をすることを求めるのであれば、審判は複数人必要だし、機械の自動判定機、ビデオ導入などが正しい.

しかし、それを良しとはせずにあくまで審判の判定は絶対で、いかに自分に不利なジャッジをされようとも抗議はしないというのが伝統的なイギリスの考え方だ.

ワタシはこの考えに賛同する.

あくまでスポーツは遊びの延長線上にあり、勝敗や判定をめぐって抗議・再判定の要求というのは、やはり違うと思う.
もちろん人間なのでミスジャッジもありうるわけで、技術も経験も未熟な審判には閉口するのだが、審判というのはもっと尊敬されるべきだと思う.

そんなところを、文化的な背景できちんと押さえているイギリスのスポーツ文化というのは、古臭いけれどももっと注目しなければいけないと思う.

--関連過去記事--
2006/03/28, インスタントリプレー功罪

--関連News記事--
2006/04/01, テニスにビデオ判定 ツアーで初実施 on Tennis.365

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